一文無しの「どん底」から始まった餃子屋の挑戦
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父の背中を追いかけた少年時代
1972年、私は養豚と農業を営む両親のもとに三男として生まれました。父は、祖父から引き継いだ農業だけでなく、養豚を本格的に始め、一代で大きくした実業家でした。そんな父は私の憧れで、いつしか自分も、「将来は、父のようになりたい」と思うようになっていました。
15歳のとき、7歳上の長兄が書店で大川総裁の書籍を買ってきたことをきっかけに、私は幸福の科学に出合いました。
人生に成功する心の法則から宇宙創世の真実まで、他では知りえないようなスケールの大きな教えに魅了され、夢中になって書籍を読んだのです。そして、19歳のときに「もっと真理を学びたい」と、兄たちと幸福の科学の会員になりました。
22歳頃のKさん。幸福の科学の豊橋支部にて
「このままでは家族共倒れだ」
私は地元の高校を卒業後、全国チェーンの雑貨屋に就職しました。そして、28歳のとき、「自分の会社を立ち上げたい」という夢を描いて雑貨の 卸売おろしうり で独立の準備を進めていたのです。そんなある日、父から、ショッキングな話を打ち明けられました。
「A…。実は、うちの中華料理店の経営が危ないんだ。店を手伝ってくれないか?」
この何年か前に、父は養豚業をたたみ、2番目の兄と一緒に中華料理店を始めていました。しかし、経営は想像以上に厳しく、借金もできてしまったというのです。
(そんなに大変な状況だったのか……)
父が私に助けを求めてくることなど、今まで一度もありませんでした。よほど経営が苦しいのだと察した私は、自分の夢をいったん諦め、家業を手伝うことにしたのです。
実際に働き始めると、本当に厳しい状況が徐々に見えてきました。しかし、ただ黙って 負債ふさい が膨らむのを見ているわけにはいきません。
(料理の味は良いと思うんだけどな……)
自分にできることを探していたとき、父自慢の手作り餃子を卸売することを思いついたのです。小売店に何度も足を運んで営業すると、ありがたいことに注文してくださるところがちらほらと出てきました。それでも、店の経営はなかなか回復させることができません。
(このままでは家族共倒れだ……なんとかしないとまずい)
2003年、私は突破口を見つけたいと、貯金をはたいて幸福の科学の中部正心館の『経営必勝法』研修に参加することにしたのです。
研修には、たくさんの経営者の方々が集っていました。まだ何の事業も起こしていない私はその中に混ざって参加したのです。
研修では、大きな成功ビジョンをありありと描くことの大切さについて解説がありました。
(「起業したい」という夢は何度も描いてきた。でも心のどこかで、「俺には無理じゃないか」って尻込みしていた気がする…)
思えば私は、憧れの父と比べて何もかも劣っている自分に自信がありませんでした。しかし、崖っぷちの今、「自分を信じて、とにかくやってみよう」と心のスイッチが切り替わったのです。そして、餃子の製造と販売で起業することを決心しました。30歳のときでした。
「どん底」の暮らしのなかでも見失わなかった希望
しかし、私が事業を始めてしばらく経つと、父の店は廃業が決まりました。家族が住む実家も競売にかけられそうになり、負債はすべて合わせると3千万円にものぼりました。
(親父もおふくろも、もう高齢だ。今から借金を返すのは難しいんじゃないか……)
私は、両親の代わりに借金を返済することにしたのです。今まで育ててくれた父母を見捨てることはできませんでした。
餃子工場は、ずいぶん前に豚舎として使っていた実家の倉庫をリフォームして使うことにしました。といっても、一文無しですから、ホームセンターで機材を買ってきて自分で改装した手作りの工場です。
当時、結婚したばかりの妻も、一緒になって汗を流してくれました。肝心の餃子製造機は、父の中華料理店で使っていたものをゆずり受けました。
そんなある日、父と自宅で過ごしていたときのことです。
「A、俺には財産も何も残ってない。お前にのこせた物は、あの餃子製造機だけだ」
「親父……」
ぼそりぼそりと、力なくつぶやく父を見て、私は必ず事業を成功させると心に誓ったのでした。
さっそく仕事を始めた私は、妻と二人で餃子を作っては、近所を一軒一軒まわって売り歩きました。
「ごめんください!餃子はいかがですか」
「ありがとう。この前、おたくの餃子をいただいたら、すごく美味しかったわ。今日も買おうかしら」
行商に行くと、うちの餃子をとても喜んで買ってくださるお客さんがたくさんいました。元々、雑貨を扱う会社を起業したかった私は、それまで「餃子の仕事は仕方なく始めた」と思っていました。
しかし、お客さんの笑顔を見て、餃子を作る自分の仕事に対する誇りが持て、何よりも情熱がふつふつと湧いてきたのです。
一方、一家の生活はまさに「その日暮らし」の状態。お金が足りないときは、家電や本や服など、売れそうなものは何でも売って食いつなぎました。しかし、そんななかでも、私も妻も、ちっとも卑屈にはなりませんでした。
幸福の科学で「心に描いた未来が現実になる」と学んでいたので、現状を悲観するのではなく、会社が発展した明るい未来をとにかく信じ続けたのです。
むしろ、「どうしたらお客さんに喜んでもらえるか」、アイデアを出して商品を考えたり、営業したり、自分で仕事を創造できることが嬉しく、休むことも忘れて無我夢中で働きました。
国産無添加の餃子作りに挑戦
会社を始めて、5年近く経っていた2007年。仕事も軌道に乗り、両親も餃子の配達などを手伝ってくれるようになっていました。
そんなある日のことです。高齢の男性から工場に問い合わせの電話がありました。
「おたくの工場で、国産 無添加むてんか の食材を使った餃子は作れないかい?」
その男性は経営している小売店で「素材にこだわった餃子」を販売したいと、新商品を探しているのだと言いました。
しかし、良い品が見つからず、困っているそうなのです。うちの会社の噂を聞いて、連絡したと聞きました。
(うちは無添加食品に加工する知識も、国産食材の仕入れルートもない。でも…)
一瞬、仕事を請けるかどうかためらいました。しかし、大川総裁の 『常勝思考』 の言葉が、ふと心に浮かんだのです。
「道を拓く方法を常に考える必要があります。現状で勝手にネックを決めるので
はなくて、常に、『どうすれば道が拓けるか』『何か工夫はないか』ということを考える必要があります―」
(そうだ。できないことはないはずだ。方法を探ってみよう)
うちの会社を頼ってくださったお客様を絶対に 無下むげ にはできない。私は、未経験の仕事に挑戦すると決めたのです。
それからは毎日、試行 錯誤さくご の連続でした。まずお肉や野菜など、国産食材の情報集めを行います。納得する食材を求めて自ら農家さんのところへ足を運んでは、工場に持ち帰ってさまざまな組み合わせを試しました。
添加物が含まれた調味料を使わないで旨味を出す研究も重ねたのです。お客さんの期待に応えたい―。私は、その一心で商品開発に没頭しました。
そして、ついに餃子が完成。注文してくださったお客さんに、商品を届け、さっそく試食をしてもらいました。お客さんは餃子を口に入れ、箸を置きました。私は手に汗を感じながらお客さんの一言を待ったのです。
「Kくん、おいしいよ。これならいける。一生懸命やってくれてありがとう」
(良かった…!)
お客さんが喜ぶ商品を提供できたことに安堵しました。さらにお客さんは、私の仕事への姿勢を見て信頼してくださり、その後も発注してくださるようになったのです。そればかりか、他の小売店仲間や農家さんに私を紹介してくれました。以来、紹介をきっかけにまた次の仕事の注文が入るようになったのです。
(信用こそ財産だ―)
さらに、この直後、隣国で製造された冷凍餃子に毒物が混入していたという事件が発生し、「食品の安全」への世論の関心が一気に高まりました。完成したばかりのうちの国産無添加餃子は、口コミでまたたくまに広まったのです。
長年、Kさんが愛読している2冊。仕事のヒントを得るために折りにふれて開いている。
「経営者の心境が経営に現れる」
売り上げの上昇に合わせて社員も雇うようになり、会社はこのまま順調に発展を続けるかのように見えました。しかし、突如、業績がガクンと落ち込み、赤字が続いて経営危機になったのです。
(なんで売れないんだ……)
原因が分からず、パニックに 陥おちい ってしまいました。気がつくと、「今、どれくらい売れている?」と売り上げのことばかり考えていました。しまいには、「従業員がちゃんと働いていない のではないか」と大切な会社の仲間までも疑ってしまったのです。
ある日、心が波立っていた私に、知り合いの先輩経営者が声をかけてくれました。
「そんなことで一喜一憂するなよ」
その言葉にはっと我に返りました。売り上げが落ちたことに 囚とら われて、“もっと大事なこと”を見失っていたのです。
私は、自宅に安置している、幸福の科学の御本尊に祈って、これまでの自分の心の間違いを一つひとつ反省していきました。
(リーダーとしての自分の成長が追いついていなかった……)
大川総裁は 『経営入門』 のなかで「トップの能力の限界が、会社の発展の限界になる」と説かれています。まさに自分はトップに必要な大局観や、未来を見通した経営戦略などが持てていなかったことに気づいたのです。
「こちらが売りたいものを売っていた」ことなど、経営の改善ポイントはいくつも見つかりましたが、どれも根本をたどれば、トップである自分の「心の甘さ」からきていました。
(この危機をバネにしよう)
私は、仕事を見直しました。お客さんを観察し、「リピーターになってもらうためには何を提供したら良いか」を考え、餃子以外にも中華惣菜を作るなど、改善を重ねたのです。その結果、約3カ月で会社を立て直すことができました。
大黒天の使命を果たしたい
経営が危うかった時期は、私が日々の忙しさにかまけて、心をみつめる宗教修行を 怠おこた っていた時期と重なっていました。
経営者こそ自己反省したり教養を深めたりすることが大切だと実感した私は、以来、幸福の科学の精舎や支部での研修や祈願に今まで以上に積極的に参加するようになりました。
ある時、幸福の科学の中部正心館の研修で瞑想に取り組んでいると、不思議な体験が臨みました。私の守護霊も一緒になって、餃子の営業に行っているビジョンが浮かんで見えたのです。
(目に見えない存在がいつも応援してくれているんだな…)
私たち人間は、神仏には生かされている存在です。その恩を世の中に返していくことこそが、仕事の本質なのだと思ったのです。
(これからもっと、豊橋や日本の発展に貢献したい!)
そう強く願った私は、畜産農家の皆さんと協力して、地元の野菜やお肉を使ったバラエティ豊かな餃子の開発と販売を精力的に行うようになりました。単に、地元の食材を使うのではなく、その魅力を最大限に引き出すことに挑戦していったのです。
また、今では地元の農家の方々のコミュニティに入って、皆さんの悩みを聞いたり、農産物のPRのお手伝いができないか提案したりするようになり、事業はさらに広がりつつあります。
会社を立ち上げたときは、多額の借金を抱え、なんとか生きてるような状況でした。今では借金も完済し、会社も成長させることができました。これもすべて、多くの方々の支えと、何より、神仏のご指導があったおかげです。
幸福の科学に出合っていなければ、私も家族も今ごろ、路頭に迷っていたかもしれません。今後は、世界も視野に入れて発展を続け、食を通して人々の暮らしを豊かにしていきたいのです。そのために私が出来ることは何でもさせていただきたいと思っています。そうした大黒天の使命を果たしていきます。