コレクション: 受験の失敗に悩むあなたへ
真面目に頑張ってきたからこそ、失敗は悔しく辛いことです。
でも、ここで人生終わりだと考えるのはまだ早いのではないでしょうか。
成功への道はいくらでもあります。
あなたの人生は可能性と希望に満ちていますから、絶対に諦めないでください。
大川隆法総裁の教えの中から、人生で成功するための
心の処方せんを選びました。
入学試験の役割と限界
受験シーズンになると、世の母親たちは、子供の受験のことで頭がいっぱいだと思います。
「子供をよい学校に入れたい」という母親の欲、あるいは、「よい学校に受かりたい」という子供自身の欲は間違いかというと、そうではありません。
人間の基本的な欲望のなかには、「自己発揮したい。自己を顕現したい」という気持ちがあります。これは自己の重要性を求めていく気持ちなのです。
もっと重要な人間になりたいという気持ちがあること自体は、否定してはいけないものです。「頭角を現わしたい」「他の人に認められるような人間になりたい」という気持ちは、否定されるべきものではありません。
これをまったく否定してしまうと、人間そのものが働きバチやグンタイアリのように、個性の差もなく集団で動いているようなものになるでしょう。
リーダーになっていきたいという欲求があること自体は、人間社会の前進にとって、非常に役に立っているのです。そうした欲求があることは、かまわないわけです。
ただ、結果的には、必ずしも自分の思うとおりにはならないことがあって、このときに苦しみが訪れてくることがあります。
そこで、子供の受験がうまくいかない場合に備えて、母親はいかなる心構えを持つべきなのかを考えてみましょう。そのためには、受験そのものの意味を知る必要があります。受験はいったい何のためにあるのでしょうか。
実は、入学試験というのは、「一定の期間に、どれだけのことを学習できたか」を測るためのものなのです。入学試験は、ある期間内にどれだけの勉強ができたかを測る物差しになっています。
試験の結果は、頭がよいということと必ずしも直結してはいませんが、ある意味で、幼い子供たちの知能レベル、言葉を換えれば、「訓練すれば、どの程度までできるのか」ということを測る役割を果たしているでしょう。
ただ、あまりにも学力だけを重要視しすぎることは問題だと思います。もちろん、人間の基本的な才能のなかには知力も入っていますけれども、それがすべてではありません。
感性、知性、理性、悟性と、魂の性質はいろいろあります。そのトータルで、人間としての発育度が測られるべきなのです。
といっても、感性というものは、普通は測ることができません。これは芸術的な方面では測ることもできますが、ペーパーテストではなかなか測れません。
理性については、少しは測ることができます。ただ、理性というのは、ある程度、大人にならないと、発揮できないものなのです。基本的な常識が備わってはじめて、いろいろな判断をするときに理性が試されていくのです。子供のときには、理性はそれほど発揮されません。
そして、宗教を学ぶ者にとっていちばん大切な悟性、悟りというのは、子供に要求されるべきものではありませんし、学校教育を通じて出てくるものでもありません。悟性という、人間の魂にとっていちばん大事なものは、必ずしも受験そのものに付随するものではないのです。
入試はあくまでも知性に照準を絞ったものであるということを、親は知っておいたほうがいいでしょう。ただ、世の中で役に立っていくという点においては、知性は大きな力を持っていることも事実です。このように、バランスを持った見方をしなければなりません。
現代社会においては、知性が非常に有用であることも事実です。現代は情報社会であるがゆえに、知性という、情報処理に関わりのある部分が、非常に大事なのです。
したがって、自分の子供は、どの面で長じていて、どの面で後れているのかを見ながら、トータルで子供を最大限に立派な人にしていくためにはどうしたらいいのかを、常に考えておけばいいのです。
頭がよい人には、ともすれば反省ができない性格の人が数多くいますし、自己顕示欲のままに突っ走る人もいます。
ところが、それほど頭はよくなくても、常に反省をして、自分の心の浄化をすることができれば、いつのまにか悟性が深くなり、社会に出て十年、二十年たってみると、洞察力に富んだ、深い味わいのある人間になっていることもあります。
人生における勝者・敗者は、受験の成否だけで決まるものではありません。一定期間、地下水のように潜っていて、どこかで噴き出したときに、全然ちがった人間になっていることもあるのです。
受験の成功も失敗も、人生の一部に過ぎない
現実には、受かったり落ちたりするとは思いますが、それも全部、人生経験の一コマなので、受験は最終的な生死を決めるようなものでも何でもありません。先々、大学に入ってからも、人生は人それぞれで違うし、卒業してからも違います。大学の順で偉くなっているわけでもありません。
企業などで言えば、だいたい入社何年目とかになると、同期と比較して能力的に互角という場合、もう判定がつかないような場合には、いわゆる偏差値の高い大学の人を上にしたほうが座りがいいかなあということで、そちらを昇進させるようなことはあります。
けれども、一般的な能力の判定は極めて難しいので、入社のとき以外はほとんど学歴も効かないと思っていいのです。やはり、世間は実績で判断することが多いのです。
だから、どうか、受験で判定されなかった能力は、別のところでまた出てくることがあると信じてください。そう考えるとよいと思います。
成功にも学びはあるけれど、失敗にも学びは多いのです。失敗したときは、その原因を考えて、次のステップでの学びに生かしたらいいのです。
最終的に進学する学校が、自分の望んだところではない場合もあるかもしれませんが、そのほうが将来的には成功することもあるということを知っておいていただきたいと思います。
例えば、大学の研究者などは、その学校の卒業生がなります。たいていの場合、本当はもっと上位校を狙っていたのに落ちてしまい、その大学に入ったというような人が研究者になっていることが多いのです。優秀な人がたまたま入ったのでしょう。そうした人が、希望していた大学に入った場合には、研究者にはなっていないというケースもよくあります。
「何が道を拓くかはまだ分からないのだ」ということを知っておいたほうがよいのです。
「学歴」が人生のすべてではない
今、「受験戦争」のなかにいる人にとって、それは、つらいことだろうと思います。
しかし、教育を十分に受けられない国の人々と比べれば、日本のように勉強の機会が数多く用意されている国の人々は、とても幸福な立場にあると言えるかもしれません。どうか、そういう視点も持ってほしいと思います。
また、現在の学校は偏差値で多くの階層に分けられているため、受験者にとっては、入試の合否という、成功と失敗はあるでしょう。しかし、偏差値の高い学校に入れたら成功で、低い学校に入ったら失敗だとは限りません。
例えば、「出身校の偏差値が高くなると、自殺率も高くなる傾向がある」と指摘する人もいます。
自殺の問題については、幸福の科学でも、数年前から自殺防止を呼びかけるキャンペーンなどに取り組んでいますが、「人生の底辺にある人は自殺して、うまくいっている人は自殺しない」と言えるかというと、必ずしもそうではありません。「ある程度、うまくいっていた人が、途中で挫折したときに自殺する」というようなことが多くあるのです。
三十年以上前の話になりますが、私が東京大学に入学したばかりのころに聞いた話が今でも印象に残っています。
ある教授が大教室で、「文Ⅰの人は、毎年、必ず一人は自殺します。しかし、文Ⅱの人は自殺しません」と言いました。文Ⅰとは文科Ⅰ類の略で、官僚や法曹界を目指す人の多い、法学部へのコースであり、文Ⅱとは文科Ⅱ類の略で、卒業後は企業へ就職する人が多い経済学部へのコースです。
その教授は、「文Ⅰには、地元で学力が一番だったような人が全国から集まってくるので、『自分が一番でなければ我慢できない』というような人は、挫折に耐え切れずに自殺することがある。しかし、そういう、ものの見方、考え方は間違っているので、気をつけなさい」と言っていました。
地元で一番の人ばかりを集めても、一番から最下位まで順位が出るのは当然のことです。しかし、それが受け入れられなくて自殺する人が出てくるのです。
あらかじめ諦めの思いを少し持っていた人のほうが挫折に強くて、「最高級であることが認められないと許せない」などと思っている人が、簡単に死んでしまうわけです。
人生の最初のうちにうまくいった人は、途中から道が閉ざされ始めると苦しくなってきます。「自分の人生が次々と開けていくようでなければ許せない」と思っているため、うまくいかないと、衝動的に自殺してしまうのです。
一方、偏差値がそれほど高くない学校に入った人の場合は、わりと早いうちに諦めが始まっていて、自分にあまり高望みをしていません。人生の最初の段階で、「自分は大したことがないな」と思っていると、そう簡単には死にません。そういう人の人生が、やがて開けていくと、みな驚くのですが、実際、偏差値の高くない学校に入ったとしても、人生のある段階からうまくいくようになる人もいるわけです。
一年浪人しても、一年長生きすればよい
受験の結果、自分の子供が合格することもあれば、合格しないこともありますが、合格した場合には、努力が正当に評価されたわけですから、素直に喜び、そのことを勇気として、ますます謙虚に努力していく姿勢を指導すべきです。
また、合格しなかった場合でも、「この時点で人生のすべてが決まってしまうものではない。人生は長い長いマラソンなのだ」ということを教えてあげる必要があります。「一年浪人しても、一年長生きすれば、それですむ」ということを、子供に言っておけばいいのです。
早く合格しても、早死にすれば、それまでです。「二年浪人すれば二年長生きすればいい。石にかじりついてでも二年長生きするぞ」と心に思い、浪人して後れた部分を、長生きして取り戻すことを考えればいいのです。
自分の子供が浪人したならば、「一年長生きすればいい。身体を健康に保ち、よく運動をし、適度に勉強をしてがんばれば、一年ぐらいは長生きできるのだ」と教えておけば、そのとおりになるでしょう。
たとえば、勉強ばかりして不摂生でいると、大学入学後に死んでしまうこともあるのです。私の知人にも、猛勉強をして大学に入ったものの、生活費を節約して本を買い、インスタントラーメンばかり食べていたところ、栄養失調で死んでしまった人がいます。
社会に何も還元しないまま死んでしまったならば、何のために勉強したか分かりません。気の毒だと思います。このように、幸・不幸は合格か不合格かだけで決まるものでは決してないのです。
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