コレクション: 身体障害・ダウン症

「他の人よりも自分はできないことが多い」と気づいたときはとても辛いと思います。
でも、「自分はダメなんだ」と思う前に、真理の言葉に触れてみてください。
障害を持っていても、魂としては完全です。完全な魂を持っています。
そして、人生には目的と使命があります。
自らの人生計画を探究し、その価値に気づくことができれば、人生は光に満ちてきます。

大川隆法総裁の教えの中から、身体障害やダウン症による悩み・苦しみを
軽くするための心の処方せんを選びました。

 

他の人々を導くために障害者の人生を計画して生まれてくる人もいる

他の人々を導くために障害者の人生を計画して生まれてくる人もいる

ヘレン・ケラーが三重苦になったように、尊い目的を持ち、障害者の人生を計画して生まれてくる人もいます。

なかには、菩薩行として、そのような病気をしている人も、いることはいるのです。

たとえば、車椅子の生活をしている人のなかには、社会的に活躍している人もいます。そういう人は、「なぜ、こんな不運が」と思っているかもしれませんが、ある程度、覚悟して、そうした運命を描いている人もいるのです。

このように、生きがい、喜び、勇気、そういうものを他の人々に奮い起こさせるために、肉体的な障害を選んでいる人もいます。

それは、霊的に見れば一時的なことではあるのです。その間、徳を積むために、そのような姿をとっている人もいるのです。そして、この地上を去ると、肉体的障害は、すべて解消され、自由な姿に戻ります。

大川隆法著『「アイム・ファイン!」になるための7つのヒント』より

障害を持っていても、魂としては完全

病気にかかっていたり、何らかの障害を持っていたりしても、魂としては完全です。完全な魂を持っています。

障害などを持っていたりすると、試練として、何十年かのあいだ、苦しみがあるかもしれませんし、家族にも迷惑がかかるかもしれません。しかし、あの世へ還ったら、完全な姿に戻ります。

そういう重荷を背負って生きることは、何らかの魂修行に必ずなっているので、障害などをあまり深く考えすぎてはいけません。「魂的に劣っている」という考え方をとるべきではないのです。

実は、そういう重荷を背負いながら、苦闘し、努力している人のなかには、すばらしい光を秘めている人もいます。普通の人よりも、もっと立派な人が、重度の障害を持っていたり、知的障害者のように見えたりすることも、この世にはあるのです。

光の天使たちが、一定の使命を持ち、そういう姿で生まれていることがあります。世の中の人たちを何らかのかたちで教育したり、親に対して教育をしたりする必要があって、そういう姿で出ている場合もあるのです。

したがって、外見だけで判断してはいけません。

大川隆法著『じょうずな個性の伸ばし方』より

障害を持って生きることの意味とは

足が動かない人、手のない人、目が見えない人、耳が聞こえない人など、現在、身体的な不自由を抱えている人はたくさんいます。そうした人たちのなかには、過去の転生において、何らかの肉体的なカルマをつくっている人もいます。

ただ、あの世に還ると、それは治ります。目が見えなくても耳が聞こえなくても、あの世では治るのです。不自由なのは、この世にいる、ほんの何十年かのあいだだけです。本当にそうです。

地上では、そのような“配役”になっていても、そのなかに修行があるのです。

その“問題集”の模範解答は、あの世に還ったときに必ず示されます。なぜ、そういう修行をしたかということが必ず教えられますから、それまでのあいだは、とにかく、一生懸命、自分の問題集を解いていただきたいと思います。

大川隆法著『「アイム・ファイン!」になるための7つのヒント』より

障害を持って生まれた人へのアドバイス

障害を持って生まれた人へのアドバイス

一つ目は、「個人相談的に見ると、障害児、すなわち、大きな障害を持つような子どもが生まれてくる場合には、たいてい、前世や前々世などに、カルマというか、何らかの原因がある」ということです。

過去世をずっと辿ってみて、その原因がないことは、ほとんどありません。その人の人生修行として、あるいは人生の問題集として、「今回は、そういう人生を経験しなさい」というテーマが出され、そうなっていることが大部分なのです。

さらに、その子だけではなく、大多数の人たちが、過去、数千年の転生のうち一回ぐらいは、体に不具合のある人生を経験しています。なぜかというと、たいていの場合、過去の転生で、ほかの人に害を与え、その人の体の自由を奪うような経験をしたことがあるからです。

原始的な時代においては、人間は、お互いに野蛮でした。人をいじめたり、殴ったり、蹴ったり、叩いたりする人は、今でもいます。転生の過程で、人を害した経験のない人など、ほとんどいません。過去世で、人を不幸にし、肉体的にもいじめたことのある人は大勢いるのです。(中略)

表に出ている現象だけを見ると、「なぜだろう」と思うかもしれませんが、カルマを消すために、そうなっていることがあるのです。そういう人生を経験することによって、そのカルマは消え、償いが終わるわけです。

例えば、刀で人の腕を切り落とせば、どこかの転生で手に障害が出たりします。一度、そういう障害を経験することによって、過去の罪の意識のようなものが消えるのです。それで、そのカルマが清算され、問題集の問題を一つ解いたことになるわけです。そして、また別の問題が出てきます。

障害児として生まれること自体は、この世的に見たら不幸ですが、長い転生で見たら必ずしも不幸とは限りません。それは、意味のあることなのです。

今回、障害児として生まれなければ、そのカルマは来世以降に持ち越しになります。それは、どこかで対決しなければいけないテーマだからです。

「今回でカルマを清算しよう」という人生目的があって、その障害と闘っているのならば、神や仏にとっては、それを治さないことが慈悲なのです。人間心では、「かわいそうだ」と思うでしょうが、「神や仏は、それを見守っているだけ」ということがあるのです。

当会の祈願等を受けても、必ずしも奇跡が起きず、障害などが治らないケースがあるのは、その人の人生の目的のなかに、「カルマの清算」が入っていることがあるからです。その場合には、その障害などを取り除くわけにはいきません。取り除いたら、来世以降で、もう一回やることになってしまうのです。

障害などを持つことに関して、一般的には、そういう考えを持てばよいでしょう。特別な障害や特別な病気、難病・奇病と言われるようなものが何かある場合には、カルマの問題と見て、ほぼ間違いありません。

今回の人生では、過去において、人を傷つけるような悪いことはしておらず、反省をしても何も出てこない場合でも、心の窓を開くと、過去世のことがわかり、カルマが見えてくるのです。

大川隆法著『じょうずな個性の伸ばし方』より

障害児は「健康のありがたさ」や「優しさ」を教えてくれる先生役

二つ目に述べたいのは、「この世に障害児が一定の比率でいてくださるのは、ありがたいことである」ということです。

人間は、障害児など何かが欠けている人を見なければ、「自分は幸福である」ということがわからないものです。全員が健康であり五体満足だと、そのことに対して感謝の思いが全然起きないのです。

学校の同級生に、たまたま、障害のある子がいて、その子のお母さんが苦しんでいたら、まわりの人たちにとっては、とても勉強になります。障害のある子は、それによって自分が勉強するだけではなく、まわりの人にも勉強させているのです。つまり、先生役をしているわけです。

その意味で、障害のある人は一定の割合で必要です。人々に「健康であることのありがたさ」を教えなければいけないからです。(中略)

三男が転入した小学校は、一学年が二十人ぐらいの小さな学校でした。そこにはダウン症の男の子と女の子が一人ずついましたが、その子たちを見た三男には、とても優しい気持ちが出てきたのです。

三男は、前の学校で、「おまえはデブだ」などと言われ、いじめられていましたが、「健康に恵まれているのは、ありがたいことなのだ」ということに気がついたようでした。

ダウン症の子たちは、体にハンディがあるため、運動会では、ものすごく苦労していました。また、その学校は別のクラスをつくることができなかったので、その子たちは、ほかの子と同じ授業を受けていましたが、勉強についていくのが、けっこう大変なようでした。

その様子を見て、三男は何か宗教的に目覚めたのです。ものすごく優しい気持ちが出たようでした。

前の学校では、子ども同士の競争が激しく、お互いにライバルを蹴落とすようなところがありましたが、その小さな学校に転校したら、三男の性格が優しくなったのです。

大川隆法著『じょうずな個性の伸ばし方』より

与えられた条件のなかで「最善の人生」を生きる研究を

与えられた条件のなかで「最善の人生」を生きる研究を

体が不自由であっても、あの世に還ると、それは治ります。目が見えなくても耳が聞こえなくても、あの世では治るのです。不自由なのは、この世にいる、ほんの何十年かのあいだだけです。ほんとうにそうです。

地上では、そういう“配役”になっていても、そのなかに修行があるのです。

障害を治すことさえできれば自分は幸せになると思わずに、そのなかで、どれだけ最善の人生を生きられるか、これを研究してみてください。

他の人に迷惑をかけるかもしれませんが、お返しができることもあるはずです。「マイナスの面を考えずにプラスの面を見いだしていく」という努力をしてほしいのです。

肉の目は見えなくても、少なくとも“心の目”は見えるはずです。心の目でもって真理を見ていくことはできるはずです。そして、口が動くなら口で、耳が聞こえるなら耳で、何らかの「プラスの人生」を生み出せるはずです。

それも、あなたに与えられた問題集なのです。どうか、今世において自力で解いてみてください。

その問題集の模範解答は、あの世に還ったときに必ず示されます。なぜ、そういう修行をしたかということが必ず教えられますから、それまでのあいだは、とにかく、一生懸命、自分の問題集を解いていただきたいと思います。

大川隆法著『心と体のほんとうの関係。』より